3.11 私の記憶

2012-03-18 (日)
- 或る日常の風景

日本を一変させたあの日から1年が過ぎました。
被災地以外の所は日常を取り戻したかのように思えます。
けれどもテレビを見れば、辺り一面いまだ瓦礫ばかり。復興は始まってすらいないのかもしれません。

1年過ぎた今となっても、去年のあの日のことを昨日のことのように思い出せます。
けれど悲しいかな。やがて記憶は薄れてしまうもの。
だからこそ、覚えているうちに残しておきたい「3.11 私の記憶」

被災地:東京都某市

3月11日 その時刻近辺。
私は学校の体育館にいました。ちょうど1学年全員で学年集会をしていた最中。
2学年に進級するにあたって受験を終えた3年生の先輩たちから学校生活の過ごし方など話をしてもらう企画でした。

先輩たちが話を終え質問タイムに移り、学級委員が生徒たちから集めていた質問をし始めたその時。

午後2時46分。

(急に強い風が吹いてきたな…)
体育館の窓ガラスが小刻みに震えてきたのを漠然とそう思っていました。
やがて米軍機が低空飛行でもしているのかと思ってしまうほど、窓ガラスが震え始めました。
ユサユサと床も激しく揺れ、このときこれは地震かと始めて気づきました。

揺れは収まりませんでした。
天井を見れば、水銀灯は大きく左右に揺れ、落下するのではないかと思いました。
私は気づかなかったのですが、一緒にいた先生は体育館の壁も大きくたわんでいたとのことでした。

このとき生徒たちの視線が一斉に私のほうに向けられたのを感じました。
と、いうのもほんの2、3日前に単元は「地震」に入ったばかり。導入でナショナルジオグラフィックのDVD「地震」を見せたばかり。
地震の凄まじい被害の映像を見せて散々脅し、大学の友人から聞いた阪神大震災の状況を語り、

「……ま、君らがこんな目に遭うことはないと思うけど」

などとテキトーなことをしゃべっていたのでした。

左右に大きく揺れる中、生徒たちの視線を感じながら、私はそしらぬ表情を装っていました。
正直あっけにとられていて、何も考えられなかっただけなのですが。

やがて激しい揺れが収まりました。
周囲は一瞬静まりました。避難訓練のとき当たり前のように校内放送が流れるのですが、なぜ何も放送がないのか不思議に思っていました。
隣にいた体育科のK原先生が握っていたワイヤレスマイクのスイッチを入れ、何か話そうとしたのですが、マイクは入りませんでした。

生徒たちは全員教室から椅子を持ってきていたのが幸いでした。
K原先生はすぐに椅子の下に隠れるように大声で指示を出しました。 避難訓練のときは椅子の下に隠れようとしない生徒たちがこのときはサッと身を隠したのを覚えています。

が、数人でしたが持っている(※1)生徒は椅子から頭を出して周囲を覗いていました。

(※1)持っている……早い話が発達障害。

このとき自分も大声で「椅子の下に隠れろ!死にたいのか!」と叫んでいた記憶があります。
K原先生のとっさの指示は的確でした。
生徒が椅子の下に身を隠している間に体育館の扉を開け出口を確保。しばらく経ってから2クラスずつに別れ、 それぞれの出口から校庭から避難するよう指示を出しました。

自分は何が起こったか理解できず、ただただ呆然とするだけで何もできず。後で振り返ってみればK原先生の冷静さ、凄さが思い出されます。

生徒たちが体育館から脱出したのを見届けた後、自分たちも生徒たちを追って校庭に出ました。
このときには校舎から2学年や他の教職員もわらわらと校庭に出てきました。

最高責任者である校長は出張で不在。副校長が最高責任者となっていました。
K原先生が避難訓練同様クラス順出席番号に並ぶよう指示。私は受け持ちクラス生徒の人数確認に追われました。

生徒を並べた後、しばらくその場に座り待機するように生徒たちに伝え、教職員は1箇所に集まりました。
このときわかった事は、大きな地震が起こったらしいということ、校舎が停電したらしいということの2つだけ。
どこで地震が起こったのか、被害はどうなのか、電話はすでに繋がらないし、停電しているし、何も分かりませんでした。

機転を利かせたM田先生が、自分のワンセグ携帯で情報を受信。
このとき初めて宮城県沖で大地震が発生したことを知ったのでした。

(つづく)

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